解放感の中で舞台をふたつ観ました。

1月上旬に修士論文を提出し、2月5日に論文についての口頭試問を終えました。とにかく、ほっとしています。解放感の中で舞台をふたつ観ました。

 

 

 

 

 

 

 

ひとつは北九州芸術劇場で1月27日に行われた「海山塾」の『UMUSUNA』です。5 年ほど前からクラシックバレエとは違う身体表現にも興味がでてきて、いろんなダンスパフォーマンスを観るようにしています。天児牛大氏が率いる「海山塾」は以前から気になっていたのですが、なかなか都合がつかず見逃していたダンスカンパニーでした。ダンスファンの方なら、何を今更ということでしょうが、静謐な美しさに圧倒されました…。剃髪で白塗り、裸身で腰に白い布を巻いた姿で繰り広げられるパフォーマンスは、生命の鼓動のようです。暗闇の舞台に細かい砂が音もなく落ちる舞台に、一人立つ天児牛大は、巫女というかモーゼか、祈りそのもののように感じました。バレエはダンサーの身体的な条件から逃れられないダンスですが、「海山塾」においては踊り手の身体的な条件は封印されています。つまり、踊り手の内的なエネルギーが問われるのです。ゆるやかな動きの中で、個々のダンサーの熱がうねるように広がり、胸に響きました。素晴らしかったです。

もうひとつは二月博多座大歌舞伎、六代目中村勘九郎襲名披露公演の夜の部を観ました。狂言は『俊寛』『口上』『義経千本桜』『芝翫奴』です。『俊寛』は片岡仁左衛門です。以前観た中村吉右衛門の俊寛が強く深い父性愛なら、仁左衛門は理性と柔らかさが混じった父性愛という印象を受けました。島流しにあった俊寛、成経、康頼の三人に赦免がでるのですが、俊寛は成経の思い人海女、千鳥を変わりにご赦免船にのせ、自分は一人島に残るという有名な場面。遠ざかる船を見送る俊寛の姿に、胸が締めつけられます。船が見えなくなった後、うずくまり、石のように動かない俊寛の姿は、寂寥感に包まれます。そうなのです。別れのさみしさは、見送った後に募ってくるものなのです。昨年母を亡くし、このことを身を以て感じている私です。

『義経千本桜』は平知盛が実は生き延びていて、乳母侍典侍の局ととともに安徳天皇を囲まい、平家再興を狙っているという設定。そこへ源義経一行が現れ、知盛は義経一行と戦い、壮絶な最後を遂げます。知盛は勘九郎丈。無念と忠義を背負って果てる渾身の舞台です。典侍の局は七之助。こちらも町人の女房と天皇の乳母の様を演じわけ、乳母の気概と品格を匂わせながら果てるという重要な役どころです。父勘三郎を亡くし、これから自分達が背負わなければならないものの大きさに立ち向かうかのごとき、気合いの入った舞台でした。大物浦の場面では、安徳天皇は梅玉演じる義経が預かることで治まるのですが、義経とて頼朝に討たれる運命。まさに巡り巡る天運が描かれています。

舞台はそこに命が繰り広げられるもの。映像芸術ならではの良さもありますが、舞台は縁者と観客が共有する時間、命の輝きを堪能する喜びがあります。(三浦裕子)